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神埼そうめん協同組合は、佐賀県神埼市に本部を置く、そうめん製造業者の組合です
神埼そうめん協同組合
TEL:0952-52-1239

ビジョンと歴史

日に日に暑くなるこの季節、そうめんが恋しくなりませんか。 脊振山地を水源とする清流に恵まれた神埼市は、全国3位のそうめん王国です。 小麦の旨味と香りがしっかりとしていることに加え、茹でても煮くずれしないコシの強さが神埼そうめんの特徴です。 冷やして食べても、温かくして「にゅうめん」にアレンジしても美味しいそうめんを多数そろえております。

「神埼そうめん」が生まれたのは、今から約390年前の寛永12年(1635年)。小豆島より行脚遍歴してきた雲水が、長崎街道の神埼宿で病に倒れました。これを地元の行商人が手厚く看病し、その献身的な看病に感激した雲水が、手延べそうめんの秘法を伝授したのが始まりと伝えられています。

神埼はそうめん製造の好適地

脊振山系の良質な水
神埼市内を流れる城原川は、花崗岩質で水質が非常に良いことが特徴です。そうめんの材料は小麦・水・塩というシンプルなものなので、美味しい水が美味しいそうめんを作る決め手なのです。

小麦の名産地・佐賀平野
佐賀県では、温暖な気候などの好条件を生かし、古くから二毛作を行ってきました。
水田で水稲、大豆を収穫した後に麦を播く、その作付面積は北海道、福岡県に次いで全国三位(2022年産)。
安心した品質の良さと収穫量の高さは、高い評価をいただいております。

城原川(じょうばるがわ)の豊富な水量を活かした水車の利用
明治30年代、神埼町仁比山地区一帯には約60基の大水車群がありました。
城原川の豊富な水を使い、主に精米・製粉等に利用されていました。

神埼は【機械製麺発祥の地】

そうめん製造の機械を発明した佐賀の天才発明家「真崎 照郷(まさき てるさと)」
佐賀県出身。明治から大正にかけての発明家・実業家。後に「東の豊田佐吉、西の真崎照郷」と並び称されました。

代々酒造業を営む家に生まれますが、6歳の時に父を亡くし、母親の手で育てられました。
母は「立派に名を挙げ、先祖に報いなさい」と教えていたそうです。

ジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明に影響を受けて発明の道を志した真崎は、
20代半ばごろ、当時佐賀で盛んだったそうめん作りの機械を開発することを思い立ちました。
と言うのも、当時小麦粉から作る素麺は、小麦粉そのものに比べておよそ4倍もの値段で売れていたためです。

真崎は家業の酒造業を使用人に任せ、研究開発に没頭しましたが、開発は難航。
ついに酒蔵は倒産し、田畑や家財道具も売り払うありさまとなったそうです。

それでも諦めなかった真崎は、1883年、8年の歳月とおよそ9万円の費用をかけて、ついに製麺機の開発に成功しました。
日本初の「製麺製造機械」の特許を取得したこの真崎式製麺機は、そうめん作りが盛んだった神埼で広く使用されるようになり、
神埼市は「機械製麺発祥の地」と呼ばれるようになったのです。

機械の力を引き出した職人の技

製麺機が開発されるずっと前から、神埼は手延べそうめんの一大産地でした。

製麺機の登場で、大量のそうめんを短時間で製造できるようになりましたが、
当初、手延べそうめんの職人たちは、製麺機で作ったそうめんの品質に満足できませんでした。

「いくら簡単にそうめんが作れると言っても、これでは神埼そうめんと呼べない」

そこで職人たちは、経験と意地だけを頼りに、各々製麺機の改良に取り組んだのです。

粉を混ぜる羽の角度を変えてみる、タンクを少し傾けてみる、加水量を変えてみる、
ローラーの回転数を変えてみる…

職人たちは、経験を積み重ねる中で、“そうめんの正解”を知っていました。
この工程ではこういう結果が得られるべきだ、だから機械をこのように改造してみよう、
という具合に、製麺機の性能を“そうめんの正解”に少しずつ近づけていったのです。

職人たちの努力と研鑽の結果、機械でそうめんを作る技術はついに正解に辿り着き、高い評価を受けるようになりました。
神埼そうめんは、職人が機械と格闘した末にたどり着いた高みなのです。